恵比寿日和

木の器

友人に誘われて、漆器をつくる仁城義勝さんの展示会に行きました。

丁度、仁城さんが在廊されており、藍染めの上っ張りにお髭姿のご本人が部屋の隅に座っていらっしゃいます。

漆器というとデリケートなイメージがあります。作家ご本人が見ているし、恐る恐る器を手に取ろうとして、危うく取り落としそうになりました。
慌てて「ごめんなさい」と謝ると、仁城さんは「なんの、なんの。そんなことくらいではびくともしません。怖々触らないで、どんどん触ってごらんなさい」とおっしゃる。

「でも指紋がつくでしょう」と申し上げると、仁城さんは笑って、そばの器をがっしとつかみ、指の跡に「はぁーっ」と息をふきかけ、袖口でふいて「ほれ、このとおり」。
「心配せんで、よう手に取って、掌になじむのを選ぶといいです」。

安心して次から次へと器を触りまくる(?)わたしたちのそばで、仁城さんが、器づくりについて語ってくださいました。

そのお話が、植木や庭づくりの仕事にも深く通じている気がして、ここにご紹介させて頂きます。

「僕は器は控えめにつくります。用を足すのに邪魔にならんよう、飽きないよう」
「何しろ、飽きは大敵です。漆の器というのは一生使って次の代に伝えるもの。流行や好みが強いと飽きがくるし、なにより次の代の人が使いにくい」
「昔は直し屋さんというのがいて、傷んだ漆を塗り直しながら、何代にもわたって大切に漆器を受け継いでいったものです。そもそも、日本人の物の使い方は、そういうもんだったと僕は思うんです」

「こんなお盆でも、五十年、百年生きた木からしかつくれんのです」
その言葉を聞いた瞬間、栃木の馬頭の森の風景と、その山を守る佐藤さんたちや先日お目にかかったオオタカ保護基金の遠藤さんたちの顔がぱあーっと頭に浮かびました。
五十年、百年生きた木を使うなら、五十年、百年、その器を使い続けるのも道理です。

仁城さんは下地を塗らず、直接木地に漆を塗ります。
器の肌にはムラができます。それは、漆が乾く速度が違うからだそうです。
それを均一にするための「設備」もあるそうですが、仁城さんは「なんの」と、ムラができるにまかせているようです。
節目があっても「これも木だ」と思えば、そのまま使うと言います。
そうしてみると、仁城さんの漆の器は柔らかく、どこか温かみや親しさを感じます。

年若い男性が恐る恐る仁城さんに声をかけました。
さる漆器の産地で職人をしている、といいます。
仁城さんは「産地で生き残れているのは、輪島や越前やほんの少ししかないのに、ようがんばってるね」と嬉しそうです。
若者は緊張気味に「でも、仁城さんのような器づくりは産地ではできない」と言います。
「日本の漆を使わないところもたくさんあるし、化学薬品を使って漆を塗っているところもあります。」
仁城さんは「自分がいいと思う方法で器をつくればいいじやないか」とおっしゃいましたが、若者は「そんなことをしたら、変わったヤツだ、はみ出し者だといわれてしまいます」
「それはようわかる。ようわかるから、自分でできる少しの分だけ、正しいと思うやり方で器をつくって、こうして直接買っていただけるようになればいい。正しい方法でつくったものを待っている人はたくさんいるんだよ。ほら、みてごらん」とお話しされていました。

そして、私は栃の木の小さなお盆とお椀をひとついただいて帰りました。
毎日のお味噌汁を飲むのが楽しみになる、そんな器だと思います。
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朝起きるとテーブルの上に置いたままの器の上に、春隣の日差しが。
何の変哲もないのに「あぁ美しい」と思いました。
その美しさを拙い写真で伝えられるべくもありませんが。。。


 
「木の器」展

http://www.eweinmayr.com/ja/location/tokyo/index.htm





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